日本書紀の記述に「推古天皇の18年春3月、高麗王。僧曇徴よく紙墨をつくる」とあり、これが日本における墨についての記述の最初のものだということになっています。推古天皇の18年というのは610年にあたります。その記述によると、高麗の王は、僧である曇徴(どんちょう)と法定(ほうじょう)を献上しました。曇徴は五経(儒教の本)を知っていて、また彩色(絵の具)と紙墨(紙と墨)を作り、碾磑(水力を利用した臼)を作ることができた、ということです。

 けれど、このときに紙と墨が初めて伝えられたということではなく、最新の紙と墨の製造法が伝わったと考えた方がよさそうです。文字の伝来と墨の伝来は切ってもも切れないものですので、文字が伝えられた時にはそれを書くための墨も一緒に伝わったはずです。

 では、文字がいつ伝来したかということなのですが、「日本には固有の文字がなく中国の漢字が伝来して日本の文字となった」ということを前提にしておきたいと思います。というのも、漢字伝来前に「神代文字」というものがあったという説もあるからです。神代文字があったかなかったかは、このサイトでは議論しないことにします。現在の日本語の表記は漢字を元として出来上がってきたものですので、漢字の伝来をもって現代の日本語表記の歴史が始まったといたします。

 平成になって、日本での漢字使用の最古の遺物がさまざま発見されています。
 1998年(平成10年)1月には「奉」(「幸」「年」「与」かも知れない)の字が書かれた2世紀前半の高坏の破片が三重県安濃町大城遺跡で発見されたと新聞各紙で報じられました。同じく1998年2月には「竟」の字が書かれた3世紀半ばの甕が福岡市前原市三雲遺跡で発見されたと朝日新聞に報じられました。少なくとも2~3世紀には日本に文字があったようです。

漢字の伝来については、またいつか詳しく記したいと思います。

金印
2016年3月には、福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で、弥生時代(紀元前4世紀~紀元後3世紀)のものとみられる国内最古級の硯の破片1個が出土しました。魏志倭人伝によると、倭国から漢王朝に使節団が派遣され「漢倭奴国王」の金印を下賜されているのですから、紀元前後の日本には漢字を読んで理解する能力を持つ人がいたと考えてよいのではないでしょうか。
 すると、その頃使われていた墨は漢で使われていたものと同じようなもの(墨丸)だったと思います。

 538年(諸説あり)に仏教が伝来すると、写経等の必要から墨の需要が高まります。正倉院には中国製、朝鮮半島製の墨が保存されていて現存する日本最古の墨です。その後、701年に制定された大宝律令には中務省の図書寮に造墨手4人を置いたとされていて、本格的に国産の墨が作られるようになったことがわかります。

古代史俯瞰:
http://tokyox.matrix.jp/wordpress/%E5%A2%A8%E6%9B%B8%E3%80%81%E6%BC%A2%E5%AD%97/
日本経済新聞:
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG01H95_R00C16A3000000/
墨運堂:
http://www.boku-undo.co.jp/HP/histry/histry22.html