1900年(明治33年)、岐阜県の小学校教諭であった田口情爾という方が、子供達が冬場に墨をするのがかわいそうだと考えて、なんとかすらなくていい墨を作ろうと、墨汁を開発したそうです。子供にとっては墨をすることはなかなか大変なことですよね。小学校の先生の子供たちを思う心が墨汁の発明に繋がったのです。

1.昔の墨汁は質が悪かった?


 田口情爾氏が発明した墨汁は、現在のように液体のものではなく、固形墨と同じように松煙や油煙からとった煤が原料となっていて、練られた練墨だったようです。水で希釈してすぐに使えるものだったのですね。ところが、長期保存に向かず、すぐに腐ってしまったようです。
 その後研究が重ねられ、松煙・油煙の代わりにカーボンブラックが用いられるようになり、固形墨で使われる膠の代わりに合成樹脂が使われ、凝固防止のための塩化石灰、さらには防腐剤が使われて腐りにくくなりました。しかしこれでは化学物質のオンパレードですね。カーボンブラックは主に石油由来、その後気化したナフタリンなども原料に使われたようです。固形墨は松を燃やした松煙、あるいは菜種油を燃やした油煙に膠と香料が主原料で、天然の素材のみでできています。映画「ラスト・エンペラー」に宦官か罰として墨を飲まされるシーンが出てきますが、飲んでも死ぬようなことがない原料でできているのが固形墨です。
 ところがカーボンブラックを主原料とするようになった墨汁は、取り扱いこそ容易になりましたが、とても飲めるような代物ではありませんね。

2.墨汁は使わない方が良い?


 年配の先生方の中には「墨汁を使うなどもってのほか。固形墨をすって書くのが本当の書道だ。」という方もいらっしゃいます。おそらく、墨汁といえばカーボンブラックが主原料という意識が強いからではないかな、と思います。しかし、近年の墨汁はさらに進化しているようです。
 今、書道用品店で売られている多くの墨汁は、たいてい固形墨と同じく松煙・油煙から取られた煤を主原料としているようです。また、お値段の高いものになると膠を使っているものもあります。安価なものは合成樹脂が使われているようですが、それでも数十年前の墨汁と比べたら、随分と質の良いものになっていると思います。
 墨汁を使わない方が良い、という理由の一つに、表装した時に滲みやすい、ということもあげられると思います。固形墨の場合、膠によって煤の粒子を紙に定着させるのですが、膠が入っておらず凝固防止剤が入っている墨汁は乾いたように見えても表装したときに溶け出して、滲んでしまうということがあったそうです。これについても近年の墨汁ではほとんど問題ないと思います。よほどの粗悪品を買わなければ大丈夫でしょう。おそらく日本で一般的に買うことのできる書道用具メーカーのものでしたら、ほとんど問題ないと言えるのではないでしょうか。

羊毛(左)と鼬毫(右)

3.とはいえ、筆はよく洗え


 筆は、膠成分を含んだ墨を含ませることによって、だんだんと育ってゆくものと言われています。特に、羊毛の柔らかい筆は使えば使うほど、毛にコシが出てくるものだと言われています。それは、固形墨を使っていればこそと言えます。
 品質が良くなってきたとは言え、化学物質を含んでいる墨汁を使用した場合には、できるだけ綺麗に筆を洗うべきでしょう。特に鋒の根元部分には墨汁が残らないようにしっかりと洗うようにしたいものです。
 また、作品として世に送り出すものを書くには、私もできれば固形墨を使いたいと思っていますし、実際にそうしています。墨汁を使う場合でも「作品用」と書かれている墨汁を使用した方が良いでしょう。

 大きな紙に大字を書いたり、書道パフォーマンスのようなことをする場合は特に大量の墨が必要です。墨すり機などもありますが、そのような場合にはやはり墨汁が便利です。
 ご自分の作品な合わせ、固形墨も墨汁も使い分ければ良いと思います。