漢字の統一(篆書)
泰山刻石 |
初めて中国全土を統一し、初めて皇帝という称号を使い、現代まで続く中国の形を作ったとも言われます。丞相であった李斯が度量制度の統一や法整備、郡県制の導入、馬車の車輪の幅まで統一しましたが、地方によって様々に派生した漢字を篆書という書体に統一、流通させたことは統一事業の重要な功績です。
1.篆書の起源
篆書の起源は、「石鼓文」と言われています。石鼓は唐代に発見され、そこに刻まれた石鼓文は中国最古の石刻文字と考えられています。鼓の形をした石に文字が刻まれたもので、秦がまだ一地方豪族領だった戦国時代に、金文を母体として秦で使われた文字です。石鼓文 |
秦が中国統一を成した後、この大篆を簡略化、あるいは当時秦で使われていた大篆の簡略化文字を李斯によって国の正書体とさせたものが篆書です。大篆に対して「小篆」とも呼ばれます。
2.篆書の特徴
篆書は金文と比べ、上下左右のバランスが整い、点画は垂直・水平を基本としながら曲線による美しさも備えています。筆線の太さは一文字の中でほぼ均一で、両端は丸められ、字粒も揃うようになりました。全体に縦長で、偏と旁、冠など部首の判別が明確です。甲骨文の時代から、文字は権力の象徴でした。始皇帝もその権力を誇示するかのようの全国に自分を讃える「始皇七刻石」を建てさせます。有名な「泰山刻石」などがそれです。ところが、始皇帝の意図とはうらはらに篆書はすぐに簡略化されます。法治国家である秦は、下級役人たちが日常的に文書を記さねばならず、速記するには篆書は曲線が多すぎたのです。
3.篆書体の範囲
秦王朝の命運も、篆書のように短命でした。始皇帝が僥倖先で死去すると、宦官によって一族数万人が殺され、愚鈍だった二世皇帝をたてて傀儡とし、やがて項羽と劉邦によってわずか15年で滅ぼされてしまいます。ちなみに、大篆は狭義には「籀文」の事を言いますが、広義では籀文以前の金文も甲骨文も含めて大篆と呼びます。同じように甲骨文から小篆まで含めて広義の篆書と呼ばれます。この広義の篆書は、漢字における古代文字に分類されています。
墨書はもともと下書きで使われていたのですが、秦代になると下級役人たちが日常的に文章を筆記するようになりました。篆書のくずし書きだった隷書は漢代になると正書となりました。
青銅器は、殷代後期には作られていましたが文章はほとんど鋳込まれていませんでした。ところが周の時代になると青銅器には、臣従を誓った地方部族に対する安堵状のような内容や、王への感謝の内容などが刻まれています。
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