昭和を代表する書家、西川寧(にしかわ やすし)氏は編書『書道講座』(二玄社)の中で、楷書の線と構造について、その特徴は三過折(さんかせつ)と間架結構法(かんかけっここうほう)にあると言っています。

三過折とは、筆線に起筆・送筆・収筆(終筆)という動作が具わっていること、間架結構法というのは、楷書のバランスよく組み立てられている形状のことで、右肩上がりの横画や、左右に張り出した払いによって安定した状態となっていることと言えます。
 特に三過節の「とん、すー、とん」というリズムはそれまでの篆書にも隷書にもなかったものです。

馬鞍山朱然墓刺
 1984年に中国、安徽省馬鞍山市の紡績工場の拡張工事中にひとつの墓が発見されました。墓はすでに盗掘にあっていましたが、それでも多くの副葬品が出土し、その中に「刺」「謁」と呼ばれる現在の名刺にあたる木の板が見つかったのです。そこには、「持節右軍師左大司馬当陽侯朱然再拝」と書いてあり、埋葬されているのは呉の将軍、朱然であることが判明しました。
 そして、その墨書には三過折の筆法が認められ、発見された楷書として最古(249年)のものとなりました。また、魏の鍾繇(151年 - 230年)は楷書に優れていたことが『書譜』に記されています。したがって、楷書の成立は3世紀までさかのぼることは明らかです。

 駒沢女子大学非常勤講師の遠藤昌弘氏は著作の中で「とん、すー、とん」の三過折は、筆を回転させる草書の運筆法が影響していると指摘しています。楷書は隷書から移行した書体ですが、三過折の運筆法を持たない隷書がそのまま自然に楷書に移行することはできず、筆の回転を必要とする草書の運筆法が影響して楷書の書法が出来上がったというのです。

 同じように隷書にはない「ハネ」については、行書の影響があるのではないかと思います。
 以前は、行書体は楷書を早書きするために発生したと考えられていました。しかし、近年は隷書から草書、行書がともに発生したと説明されることが多いようです。

 篆書が正体であった秦の時代に、早書きする通行体として初期の隷書が発生しました。漢時代になって、篆書に代わって隷書で石碑が刻されるようになり、隷書は正体として扱われはじめ、やがて波磔を備えて端正に完成されてゆきました。
 その過程で、通行体として草書が発生し、それに続くように行書も発生してきたと考えられるのです。

 通行体は金石に刻されることはなく、普段使いの木簡などに書かれました。漢代には碑はたくさんありますが、木簡などの資料は限られています。それでも出土しているいくつかの墨書の中に草書、行書を見ることができます。敦煌で出土した「天漢三年簡(BC98年)」は隷書で書かれていますが点画の省略が見られ、居延出土の「初元四年簡(BC45年)」は隷書で書き始めながら、次第に草書となっています。同じく居延出土の「陽朔三年簡(BC22年)」はすべて草書で書かれています。居延出土「永元器物薄編簡(AD93~98年)」は行・草まじりで書かれています。このように漢時代にすでに草書、行書が普段書きに用いられていたことがわかります。
 これら通行体である行書、草書の筆遣いが楷書の成立に影響を与えたというのです。

 漢の中央集権は、豪族勢力の台頭とともに衰え、黄巾の乱によって群雄が割拠したのち、魏・呉・蜀の三国時代となります。魏は蜀を滅ぼしたあと司馬氏が勢力をつけて晋となり、呉も滅ぼして全国統一を成し遂げます。
 魏の曹操は「立碑の禁」を出して石碑を建てることを禁じました。けれど、国家が公に建てた碑はいくつか建てられ、私人は見えない墓の中に碑を持ち込み、墓誌銘として残されました。
 これらの石碑、墓誌銘は基本的に引き続き隷書で刻されましたが、八分を備えた漢代の隷書ではない方正なものが現れ、楷書に移行する様子をうかがうことができます。そのように変化してきた隷書に行・草の運筆法が加わり、楷書が成立したのではないかと考えられるのです。
 こうして3世紀には、篆・隷・楷・行・草の5体が出そろい、書聖・王羲之が登場する4世紀をむかえるのです。

参考:
「書道講座 1楷書」西川寧編 二玄社
「墨スペシャル 第9号」芸術新聞社
「遠藤昌弘著作選」http://www.geocities.jp/msh_skd/emchosaku/framekanzinogotai001.html
「睡人亭」http://www.shuiren.org/sangoku/syuzen.htm