馬鞍山朱然墓刺
 1984年に中国、安徽省馬鞍山市の紡績工場の拡張工事中にひとつの墓が発見されました。
 墓はすでに盗掘にあっていましたが、それでも多くの副葬品が出土し、その中に「刺」「謁」と呼ばれる現在の名刺にあたる木の板が見つかったのです。

1.発見された最古の「楷書」

 そこには、「持節右軍師左大司馬当陽侯朱然再拝」と書いてあり、埋葬されているのは呉の将軍、朱然であることが判明しました。そしてその墨書は、発見された楷書として最古(249年)のものとなりました。また、魏の鍾繇(151年〜230年)は楷書に優れていたと『書譜』に記されています。したがって、楷書の成立は3世紀までさかのぼることは明らかです。


2.「三過折」の登場

 初期の楷書は、隷書を簡略に書く中で生まれてきたと想像されます。また、竹簡から紙に移行する中で、完全直立していた筆の持ち方が、わずかに手前、わずかに右に傾くようになり、筆線に抑揚がつけられるようになりました。それに、先に出来上がった草書・行書の筆遣いも加味されて、「トン・スー・トン」という三過折(さんかせつ)の筆遣いが出来上がってきたのだと考えられています。

 楷書の筆遣いの中には、甲骨文から篆書そして隷書へと受け継がれた正書体の歴史と、草書・行書で広がった毛筆書の筆使いのすべてを内包しています。ですから、書は、楷書に始まり、楷書に終わると言われるのです。


3.楷書は「真書」と呼ばれていた

 楷書の特徴は、自然にわずかな傾きを持った直立運筆のため、露鋒で入筆され、横画は自然に右肩が上がります。一点一画は続けずに独立し、隷書のように端正な結構であって、奔放な崩しは許されません。隷書から楷書に移行する初期の楷書は「今隷」と呼ばれました。楷書という呼び名は唐代以降のもので、それまでは「隷書」「正書「真書」などと呼ばれています。「真草千字文」の「真」は楷書のことを意味します。

 篆書、隷書、草書、行書、楷書と言う漢字の基本的な五書体が、漢の時代に揃いました。こうして書聖・王羲之が登場する4世紀をむかえます。