毎年、年末になると慌ててしまうのが年賀状作り。年賀郵便の総数は1997年(平成9年)をピークに減少しているのだそうですが、近年また見直されてきているようです。そういえば私自身もちょうど1997年頃が出していた数のピークで数百枚ほどのハガキをパソコンで印刷していた記憶があります。
 その後メールで済ますことが多くなったのですが、メールを持っていない人には年賀状を出し続け、さらに書道で知り合った方達にも当然のように年賀状を出すようになったこともあり、毎年平均50枚程度は年賀状を出しているといった状況です。


1.年賀状の起源

 そもそも、新年を祝うという風習がなければ年賀状はあり得ませんし、筆記するという文化がなければ書状はあり得ないわけですから、暦があることと筆記する文化が揃って初めて年賀状が誕生する準備ができることになります。
 他の項でも書きましたが、日本に文字が伝来したのは仏教伝来と一緒だったと伝統的に言われますが、実際には紀元前後のことだったと思われます。暦の方は、中国式の暦が朝鮮半島の百済を経由して6世紀中頃に伝わり、7世紀初頭には大和朝廷によって正式に採用されました。それと合わせてそれまで木簡が中心だった筆記の文化にも紙が普及し始めます。
 年賀状にとってもう一つ大切な要素は「郵便」ですが、7世紀中盤に大化の改新が起こり、政府の文書を届けるための「飛駅使」という制度ができ、畿内各所に駅馬が置かれたということです。
明衡往来

 このように、年賀の挨拶を書状で送るための要素が7世紀頃に出揃ってくるのですが、平安後期、藤原明衡によってまとめられた手紙文例集とも言える「明衡往来」の中に、年始の挨拶を含む文例が載っているそうです。平安時代にはすでに貴族の間では年賀状に類する書状が書かれていたようです。

2.民衆への広がり

 中世・戦国期にかけて「駅伝」や「飛脚」といった制度が整えられ、江戸時代になると全国に広がります。また、江戸時代は民衆の文化が発達した時代で、寺子屋が広がると民衆の識字率は飛躍的に上がります。また、江戸では遠方のみならず江戸市中に書状を届けることができる「町飛脚」制度もできたので、江戸っ子たちは年賀の挨拶を書状で送り合うようになったようです。
 明治期になると、本格的に郵便制度が全国に広がり、西洋のポストカードから「はがき」が登場しました。短文で新年のあいさつを送る年賀状にはこのはがきがうってつけでした。また、郵便料金が安いのもはがきの魅力でした。
 ところが、はがきによって一気に広まった年賀状によって、年末に通常の何十倍という郵便が集中してしまうことになりました。そこで郵便局では年賀状を通常の郵便とは別に扱ったり、年末のある期間に専門の局に持ち込めば1月1日の消印を押してくれたりするサービスも整えられたということです。

3.戦争と年賀状

 このように明治から大正、昭和と爆発的に定着した年賀状ですが、日中戦争から太平洋戦争へと侵略戦争が広がり、その戦局が悪くなると自粛の声が高まってゆきました。1940年には年賀状の特別扱いが中止され、翌1941年には逓信省が「お互いに年賀状はよしませう。」というポスターを掲示するような事態となったのです。
 1935年には7億通という年賀状が送られていたのですが、ついに1945年には年賀状は皆無の状態になったということです。大化の改新以降から続く年賀状が、消えてしまうというという異常事態、これが戦争なのですね。



 終戦を迎えても、もちろんすぐには年賀状というような雰囲気にはなりません。それでも、お互いの消息を確かめ合うためにはがきが使われ、年賀状の特別取扱いが1948年には復活。翌年の1949年には、一般市民が考案した「お年玉付き年賀はがき」が登場します。京都在住の林正治さん(当時42歳)という方が、「年賀状が戦前のように復活すれば、お互いの消息もわかり、うちひしがれた気分から立ち直るきっかけともなる」と考え、年賀状に賞品の当たるくじをつける、というアイデアを思い付いたのだそうです。

 平安時代、貴族の世とはいえ長く平安な時代だった頃に交わされた年始の挨拶の書状。江戸時代、戦乱の世から平和な時代となって民衆の間にも広く読み書きが浸透した時代に交わされた年賀状。そして現代、年賀状でお互いの消息を確かめ合ることができる平和を途切れさせることのないようにしてゆきたいものです。
 さて、今年も押し迫ってきましたが、年賀状の準備を始めましょう。