文化大革命以前に製造された
「鐵齋翁書畫寶墨」
 鐵齋翁書畫寶墨(鉄斎翁書画宝墨)は、1912年ころ文人画家で儒学者の富岡鉄斎の求めに応じて、上海の曹素功堯千(ぎょうせん)で作られた墨です。この1912年「ころ」というのがくせ者で、いろいろと検索してもどこも「ころ」としか書かれていないのですよね…

 曹素功堯千は、清代のはじめ中国安徽省歙県で墨づくりを始めた「曹素功」が6代目にして堯千、徳酬、引泉の三家に分かれたうちの一つです。堯千氏は蘇州に進出し、九世(9代目)端友のころには上海に出店するようになったようです。十一世の曹裕衡(字は麟伯)は清末期の人で、幼いころから書や彫刻を学び、墨型を作る超絶的な技術を持っていたそうです。彼は自分の製品の銘に「徽歙曹素功」「曹素功製」などとしか記さなかったので、しばしば乾隆帝の時代の名墨に間違われることもあるほどだそうです。ところが、その曹麟伯は53歳という若さで亡くなったため、弟の曹叔琴が十一世を引き継ぐこととなったそうです。

 弟の十一世叔琴氏は兄のように墨型を作ることはできませんでしたが、著名な彫刻家に依頼して優秀な墨型を作り続けました。そしてこの十一世叔琴氏が富岡鉄斎の依頼を受け「鐵齋翁書畫寶墨」を作ったのです。

 1912年は、1月1日に南京で中華民国が樹立し、2月12日には清の最後の皇帝・宣統帝(溥儀)が正式に退位した年です。日本では、7月30日に明治から大正に代わっている、ちょうどその年でした。


1.文人画家・富岡鉄斎

 富岡鉄斎は1836年京都の法衣を扱う豪商に生まれました。父の十一屋伝兵衛はとても学問好きで、7代続いてきた由緒ある家業が傾くのではないかというほど本業よりも学問に傾倒した人だったらしいです。
 しかし、その父の影響で次男であった鉄斎も学問好きとなり、幼いころに病で難聴になってしまったこともあり、商売には向かないと思われたようです。しかし、そのこともあって存分に学問にはげむことができ、京都で著名な多くの学者の下で学ぶことができたそうです。

 鉄斎は儒学を学びながら大角南耕と窪田雪鷹という画家に絵を学びますが、当時儒学などを学ぶ文人が書画をたしなむというのは普通のことでした。鉄斎の二人の師は特に著名な人ではなかったようですが、当時南北派と呼ばれた南から北までさまざまな画法や自由な発想で書く流派だったので、その後の鉄斎の作品に少なからず影響していると考えられています。

 また、さまざまな学問を学ぶ中で、女流歌人としても知られていた大田垣蓮月という尼僧と出会い、蓮月焼と呼ばれる陶器作りを手伝いながら、一緒に暮らしたそうです。そのころ鉄斎は20歳、蓮月は65歳ほどだったとのことで、祖母のような存在でした。蓮月に深く感化された鉄斎は人間性を深めていったそうです。

 鉄斎は儒学者として私塾を開いたり、時には神主として職を得たりしたのですが、27歳ころからは絵で収入を得るようになってゆきました。けれど鉄斎自身は自分を学者と考えていて、絵はあくまで文人のたしなみという位置づけだったようです。

 彼の芸術は70歳のころ古典的な完璧さに達したとされ、80歳を超えてからさらに自由奔放になってゆき、その技量はさえわたったといわれます。生涯におよそ2万点もの作品を残しましたが、30歳までの作品がおよそ3割、大半が70歳以降で、亡くなる年89歳の時の作品が一番多いそうです。

 89歳で亡くなったのが1924年ですから、晩年の多くの作品で「鐵齋翁書畫寶墨」を愛用したのかもしれません。


2.ところで墨のオーダーってどうするの?

 文化大革命を境に、中国製品の質はかなり落ちてしまったと言われますが、それ以前の中国の書道用品は良いものが多かったそうです。硯にしても筆にしても、中国のものには絶対の信頼があり、墨も同様でした。

 書の世界で「墨色」の美しさについて言われるようになったのは第二次世界大戦後からのようです。それまでは、墨の色調はあまり話題に上らなかったようです。ただ黒色が出ればよかったのかもしれません。けれど水墨画の世界では、墨色はとても重要でした。
 そんな中、鉄斎はよい墨を作っている中国に自身の作品に使う墨をオーダーしたのでしょう。日清・日露戦争に勝利して、大陸に進出し始めた時代背景もあったかもしれません。

 墨を特注するといっても、墨には墨廠によってそれぞれ秘伝の配合があって、たとえば膠ひとつとっても強い膠から弱い膠まで数種類をブレンドするのが普通だそうですから、墨製造の素人が「この膠とこの膠を何パーセントで、じゃ香何パーセントにイノシシの肝を少々、金箔を何枚」などと細かく指定することはありません。
 ほかの道具でも同様かもしれませんが、オーダーには目的と費用をはっきりさせることが重要です。墨の場合も「どんな作品を書きたいのか」そして「予算はどのくらいか」をはっきりさせなければいけないそうです。
 そのうえで、依頼する墨廠の代表的な製品と比べてどんな感じにしたいかを伝えることになるようです。

 墨は大雑把に言って、煤と膠と香料でできているのですが、膠も何種類もあり、香料に至っては、何百種類もあるので、原料の細かな配合まで応じることはできません。ただし(あたりませんですが)、煙(煤)の種類と墨のサイズは注文に応じることができます。

 そして、たいてい墨づくりは冬の期間に行われますので、秋口に注文すれば翌年の春には出来上がっていることになります。けれど、墨は作ってすぐには使い物にならず、最低3年寝かせてからでないと製品として完成しません。鉄斎が墨を作らせたのが1912年「ころ」と伝わるのも、実際に注文した年と手にした年に最低3年の開きがあるわけですから、そのような表現になるのかもしれません。


 ちなみに墨を特注するには、木型だけで5~10万円、それに原料代と人件費でかかりますので数十万円かかるものだそうです。


裏面に「国華第一」

3.鉄斎が手にした「鐵齋翁書畫寶墨」はどんなものだったのか

 富岡鉄斎は20世紀初頭にはすでに世界中に名の知れる文人画家でした。当然、中国でも著名でファンも多かったといわれます。その大家から特注の墨を注文されたのですから、曹素功堯千氏もかなり力を入れて作ったのではないでしょうか。曹素功の墨の中で最上級である「五石漆煙」製法で作られました。あるいは、鉄斎がその製法を指定したのかもしれません。

 「五石漆煙」は桐油に漆を混ぜてたものを焼成して採取される煤が原料となり、そこにさまざまな漢方薬が配合されるのですが、高級なじゃ香が用いられるそうです。そして、金箔が1斤(約600g)に一枚入れられるのだそうです。

「徽歙曹素功尭千氏選煙」
 十一世叔琴が、優れた彫刻家に木型を依頼し見事な意匠に仕上げました。「鐵齋翁書畫寶墨」は鉄斎自身の揮毫ということです。
 中国でも日本でも著名だった富岡鉄斎が特注した墨ですから、曹素功の看板商品の一つになり、高級墨としてすぐさま有名になったと想像できます。いまでも有名メーカーと著名人のコラボ商品などがありますが、コラボから100年たった今でも人気商品なのですから、すごいですよね。

 残念ながら、100年前の「鐵齋翁書畫寶墨」を見たことはありませんが、文化大革命より前のものならイメージすることができるかもしれません。

「壬子年曹叔琴監製」
 写真は文化大革命より以前に製造された「鐵齋翁書畫寶墨」です。
 正面に「鐵齋翁書畫寶墨」と刻されています。
 裏面には牡丹の花の図柄があり、「国華第一」と刻されています。牡丹の花は清末期には中国の国の花と考えられていたようです。
 側面には「徽歙曹素功尭千氏選煙」、反対の側面には「壬子年曹叔琴監製」とあります。
 1912年がまさに壬子の年にあたります。

 趙正範という上海の墨のコレクターが出版した「清墨鑑賞図譜」に「鐵齋翁書畫寶墨」も紹介されていて、図柄も側款も上記の通りですから100年前もまさにこの写真の通りだったかもしれません。


各年代ごとの「鐵齋翁書畫寶墨」の意匠の違い

墨は、作られた年代によって微妙に意匠が違うものですが、「鐵齋翁書畫寶墨」は特にその特徴によって製造年をあれこれ言われる墨です。それほど人気の墨とも言えますが、大体この辺りを見てゆけば年代判断の参考にできるのではないかと思うところをまとめてみました。