現代の書家は何を書いたら良いのか
最後の文人と呼ばれた富岡鉄斎のことを調べているうちに、江戸時代というのは和様一辺倒ではなくて、唐様も綿々と受け継がれた時代だったことに改めて気がつきました。
と書いても、話は突拍子もない感じですが、ともすると江戸時代は和様が隆盛を極め、明治になって唐様が中心になったような印象を持っていたのですが、江戸時代でも唐様が庶民の間にもそれなりに浸透していたことを改めて知ったのです。
1.唐様で書く三代目
「売り家と唐様で書く三代目」とは江戸時代の川柳だそう。初代・二代と一から苦労して築き上げた身代をなんの苦労も知らずに坊ちゃんとして育てられた三代目が潰してしまう、そしてついに家まで売りに出さなければいけないのだが、趣味的な教養は身につけているので「売り家」の文字は唐様で書かれていた、という皮肉たっぷりの川柳です。
この句が、江戸のいつ頃の作なのかまでは知ることができませんでしたが、少なくとも唐様が当時の商人たちの間でも学ばれていたことがわかります。
そもそも、唐様とは元〜明くらいの時代の中国の書法で、御家流の流れを汲む和様が公式な日常文字だった日本では、儒学や朱子学を学ぶ学者でなければ学ぶ機会がないものでした。
江戸幕府も公文書は和洋と定めていましたし、庶民が読み書きを広く習うことのできた江戸時代でも、寺子屋で教える文字は和様でした。ですので、江戸時代の書は和様が中心であったように考えてしまいがちですし、実際にそうでした。
ところが反面、多くの藩で学問が奨励され、藩校なども開かれて下級武士までも儒学を学ぶことが奨励され、やがて庶民の間にも学問(儒学や朱子学)を学ぶ余裕が生まれるほど、江戸時代は豊かで平和な側面があったのです。
当時はすでに書を生業とする書家も存在したそうです。寺子屋では和様を教えますので、漢字は行書・草書、かなは連綿の変体仮名でした。なので、楷書は学者先生か書家先生につかないと習えなかったようです。
2.漢文・漢詩も読めた江戸時代
学問の教科書は当然、孟子や孔子など中国の書物ですから漢文で書かれたものを読み下していたわけです。そして、当然自らも漢文や漢詩を作ることができることも求められました。そのように学問を修めて、良い文章(漢文・漢詩)が作れて書ける人が文人と呼ばれたわけです。
明治になると、政府の中心となった維新の武士たちはそれぞれの藩校で尊王攘夷思想を掲げてきた人たちですし、江戸幕府に対する反感もあり公文書の文字は和様から唐様に変更されました。政府から各地に対して公文書は「楷書カタカナ交じりで書くように」と通達がされました。
西洋文化も大いに取り入れられた時代ではありますが、江戸時代から続く文人文化は引き継がれてきましたので、当然明治時代にある程度の学問を修めた人たちは、庶民であっても漢文・漢詩に親しんだと思われます。
そのような気風は大正・昭和になっても引き続き残ったことでしょう。そのような伝統があるため、今でも書家たちの作品の多くは漢詩を題材としているわけです。
3.現代の書家は何を書いたら良いのか
私の父は、戦前の教育を受けているせいか驚くほど漢文・漢詩の知識を持っています。恥ずかしながら私などはほぼ知識ゼロです。
そのように漢文・漢詩が身近であったのですから、偉い先生や政治家がスラスラと漢詩で書にしたためると、みんな喜んでそれを求めたでしょうし、求めた方もそこに書かれていることを現代人よりもはるかに理解したはずです。
わずか6〜70年前までそうだったのを思うと、現代人はなんと学の無くなったことでしょう。そして、そのような状況ですから、書道展に行って漢詩の書かれた作品を見てもピンとくるはずもありません。
同じように、つい6〜70年前までは、毛筆は日常の筆記手段でした。ところが、それがペンに代わり、ワープロに変わり、あっという間に文字を手で書くことすら日常で無くなってしまいました。
そんな中で、書家は何を書いたら自己を表現できるのでしょうか。何を題材にしたら、ピンときてもらえる作品を発表できるのでしょうか。
流行歌の歌詞、漢字かな交じりの現代詩、英文の書、広告や誌面タイトル文字。考えればいろいろありますね。
300年以上も続いてきた唐様の伝統から、たった数十年で大きく変わろうとしている現代に生きているのは、ある意味刺激的でやりがいのある時代であるかも知れません。
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