明治政府公文書体(1868年布告)
 中国の歴史の中で正字を制定できたのは、強大な権力を持つ帝国であった秦(正字=篆書)、漢(正字=隷書)、唐(正字=楷書)だけでした。それほど国の文字を定めるという事業は、大変なことだったと言えるでしょう。

 ところが日本の明治政府は、公文書の文字を江戸時代まで使われていた御家流(行草体と変体仮名の書)から、楷書カタカナまじり文に変えるという大転換を行いました。列強に遅れまいとする明治という時代の機運だったのかもしれません。


1.公文書の楷書化と五十音

江戸幕府の公文書体「御家流」
(1702年朱印状)
 ある研究によると、明治3年にはすでに明治政府の公文書の正式書体を楷書としたようです。

 公文書の楷書化には日下部鳴鶴(くさかべ めいかく)、巌谷一六(いわや いちろく)などの書家が活躍しました。さらに明治政府は、明治33年に「小学校令改正」を行い、ひらがな・カタカナの字体を一音一字とし、それまで使われていた他の書き方を「変体仮名」としました。

 これら文字の統一は活字体の統一にもつながり、結果広く民衆に広まりました。



2.戦後、書道教育の危機

 終戦後、GHQの要請でアメリカから派遣された「アメリカ教育使節団」は、日本の漢字は難しすぎるので「ローマ字にしてしまおう」としたそうです。

 漢字が難しいために、日本人の識字率が低いことを示そうと全国規模で漢字試験が行われました。その結果、全く漢字が読めなかったのは、わずか2%だったそうです。

 ところがその後もGHQの指導のもと、昭和22年に毛筆習字教育は小学校で全廃ということになりました。

 この時も、豊道春海(ぶんどう しゅんかい)、上條信山(かみじょう しんざん)などの書家が団結し、昭和24年に習字教育は復活することができました。アメリカでは「書く」ということは「正しく書く」ことを意味しますが、日本では「美しく書く」ことも含まれるのだと訴えました。


 もし、日本語の表現がローマ字だけになっていたら、漢字や仮名を読み書きするのはほんの一部の研究者だけという状況になっていたかもしれません。

 未来に「書」という文化が残るか残らないかは、今、書を志している私たちにも少なからず関わりのあることではないでしょうか。日常の文字を正しく美しく書く、という書の文化をこれからも残してゆきたいと強く思います。