日本の総合美術展の「日展」。2022年は「公益社団法人日展」となって9回目の展覧会だそうです。コロナもあって展覧会に足が遠のいていましたが、今年は久しぶりに行ってみました。




1.日展の歴史

 そもそも日展は、明治40年(1907年)に文部省主催の展覧会「文部省美術展覧会」通称「文展」として始まりまいた。

 時の文部大臣・牧野伸顕はかつてオーストリア公使だった時に、ヨーロッパの進んだ芸術とヨーロッパで行われていた公設展に注目し、日本も文明国として世界に認められるためには公設展の開催が必要だと考えていました。

 文展は、日本画・西洋画・彫刻の3部制で始まり1918年まで続きますが、審査員任命の方法や授賞などに批判が高まり、1919年に「帝国美術院展覧会(帝展)」に改められました。また、1927年(昭和2年)から美術工芸分野が第4部として加えられます。

第9回日展(2022年)の会場

 けれど、帝展となっても以前と同様に審査員任命や授賞への批判は引き続き起こり、戦争へ向かう1935年には、当時の文部大臣・松田源治が美術界を国家主導の挙国体制にしようという改組(松田改組と呼ばれる)を行い、美術家たちから大反対が起こりました。結局、松田源治の死去に伴いこの改組は失敗に終わり、大混乱ののち1937年に「新文展」となりました。

 終戦直後の1945年「新文展」は開催できませんでしたが、1946年には「日本美術展覧会(日展)」として戦後の歩みを始めることになりました。

 1948年(昭和23年)の第4回日展から、ようやく書が第5部として加わります。

 1958年に社団法人・日展が組織され民営化され、1969年法人の役員改選を受けて一時「改組 日展」と改められましたが、翌年にはすぐに「日展」に戻されます。

 2009年「コネ入選」問題が発覚し、それを受けて2014年に「改組 新 日展」と名称を変えて現在に至っています。


2.書の参加

 さて、日展の歴史の中で書がその仲間入りをしたのは戦後のことでした。明治から戦前にかけて、書はとても盛んでしたし書画会のようなサロンでの展示も盛んに行われていたようですが、日展には入れられなかったのですね。

 有名な「書は美術ならず」の論争を見てもわかるように、明治期の日本は西洋に追いつきたいという気風から、美術界においても西洋のものを積極的に取り入れていったのですね。同時に作品の良し悪しについての基準も西洋美術の観点から見られるようになったのではないかと思われます。

 既存の日本画も日本の工芸も、西洋美術のそれと類型的には同じものなので、素直に違和感なくその価値観を受け入れることができたことでしょう。ところが書は、西洋には類型のないものですので、西洋美術の物差しでは測ることができませんでした。もちろん直感的に西洋人でも書から美しさを感じるわけですが、その美しさの本質を言い表す語彙が存在しなかったと言えるかもしれません。

 西洋で文字は単に言葉を記録するときの発音の符号にすぎず、言葉を伝えるために誤りなく正しく書くことが大切と考えられているようです。その観点から言うと東洋の書作品も、言葉を伝える符号として書き付けたにすぎず、美術として鑑賞するものではないと言うことになります。洋画家・小山正太郎が明治15年『東洋學藝雑誌』に寄稿した「書ハ美術ナラズ」の中の主張も概ね同様かと思います。


3.「書は美術ならず」論争

 洋画家・小山正太郎は明治15年『東洋學藝雑誌』8、9、10号にわたって「書ハ美術ナラズ」と言う文章を寄稿した。そこで語られたのは、(1)書は文字であるから書かれた内容や書いた人が評価されているだけだ、(2)書は言語の符号にすぎず美術となる要素を持っていない、(3)書は美術のように単独で美の作用をするものではなく、詩文を伴って初めて作用する(4)書は美術としてではなく普通教育の一科目として推奨されるもので、工芸品のように輸出することもできない、と言う内容だったそうです。

 それに対し岡倉天心が11、12、13号で「書ハ美術ナラズノ論を読ム」とう文章で反論しました。その中で岡倉天心は、(1)実用技術の中にも美術の領域に入るものがあり、書は文字の配置や構成を熟考し美術の域に達する。また、詩文に感動することと書を見て感動することは異なる、(2)「書は美術ならず」と言うのではなく「書は図版ならず、彫刻ならず」と言うことに過ぎない、(3)一般の美術にどのような作用があるか説明することなく、書には絵画の作用がないと言っているに過ぎない、(4)美術を論ずるとき金銭の得失を用いるとその方向性を誤り、美術の美術たる所以を失うことになりかねない、と反論しているそうです。

 けれど、両者の論じているところを見れば、実は両者とも同じ視点で書を見ていることがわかります。二人とも、西洋の美術概念で書を論じているのです。この論争に当時の書家たちは一切関わっていなかったようです。

(続く かも)