龍渓硯
その辰野町で「龍渓硯」は産出されています。
1.龍渓の歴史
龍渓硯 田中一石作 |
歴史はそれほど長くはなく、江戸時代末期、当時の上島村(現在の辰野町渡戸上島地区)で土地のお百姓が砥石になる石を採掘していたところ、黒い粘版石ばかりが採れ、近くの医者で寺子屋を営む渕井椿斎氏が硯にしたところ、とても良い硯であったために村人たちに硯づくりを勧めたことが始まりということです。
やがて高遠藩がこれに目を付けて、公営とし、甲州から雨畑硯の職人を呼び寄せて生産を行ったということです。この頃は高遠藩が大名への贈り物用として独占していたため、民間への流出することなく秘硯と呼ばれたそうです。その後、江戸や大阪に売られるようになり「高遠硯」「伊那硯」「鍋倉硯」などと呼ばれました。
龍渓 三代目深澤秀石作 |
明治から大正にかけ鉛筆・万年筆などの普及とともに毛筆による筆記がが少なくなると作硯も衰退し、龍渓硯の生産も少なくなってゆきました。その後、昭和に入り硯が見直されると山梨県から硯石を求めて、川口丁郷、翠川希石、深沢秀石らが 移住して硯作りを始め、龍渓硯は復興しました。
こうしてみると、山梨県雨畑硯と龍渓硯ははじめから縁が深かったように思えます。
雨畑硯の硯材も同様の粘板岩で、色合いもとても似ています。蒼黒や紫色の石があるところ、赤褐色の錆色が出るところもとても似ています。硯を触った時の石の感触も非常に似ていると思います。硯石の硬さや粘り具合を触った感触で感じることができますが、唐硯の鋭い硬さに比べると温かみのある柔らかさを持っています。
私は、地質や原石についての知識は全くないので素人考えではありますが、同じフォッサマグナのつながり上に産地があることもあり、龍渓と雨畑に共通点があるような気がします。
ただし、当然ですが違いもあり、雨畑硯に見られる硯面のうっすらとした紋は龍渓硯には見られません。
長野県岡谷市出身の身としては、龍渓も雨畑もとても親しみを感じていて、その柔らかなすり心地を和墨用として愛用しています。
この問題は和硯全般に言えることで、日本の硯山地として最大の雄勝硯(宮城県)は東日本大震災の後、生産を中止していますし、同じく著名な赤間硯(山口県)も後継者不足に悩んでいるということです。
日本の硯作りの伝統が、今後も引き継がれていくことを願ってやみません。
こうしてみると、山梨県雨畑硯と龍渓硯ははじめから縁が深かったように思えます。
2.龍渓の硯材
龍渓硯の硯材は「黒雲母粘土板」と言われる石で、緻密な石質で鋒鋩がきめ細かく粒子の細かな墨を下ろすことができます。赤褐色の錆色がでる部分も美しいです。基本的には蒼黒の色合いですが、紫色の石も稀に見られます。雨畑原石 |
私は、地質や原石についての知識は全くないので素人考えではありますが、同じフォッサマグナのつながり上に産地があることもあり、龍渓と雨畑に共通点があるような気がします。
雨畑硯の硯面にはうっすらと紋が見られる |
ただし、当然ですが違いもあり、雨畑硯に見られる硯面のうっすらとした紋は龍渓硯には見られません。
長野県岡谷市出身の身としては、龍渓も雨畑もとても親しみを感じていて、その柔らかなすり心地を和墨用として愛用しています。
3.硯材枯渇問題
龍渓硯は東京の書道用品店で見かけたことがありません。流通量はさほど多くないようです。雨畑の方が知名度も高く、東京の書道用品店でも多く見かけます。龍渓にしても雨畑にしても原石の枯渇と職人の減少が深刻な問題です。紫色の龍渓硯 |
この問題は和硯全般に言えることで、日本の硯山地として最大の雄勝硯(宮城県)は東日本大震災の後、生産を中止していますし、同じく著名な赤間硯(山口県)も後継者不足に悩んでいるということです。
日本の硯作りの伝統が、今後も引き継がれていくことを願ってやみません。
日本の硯のシェア9割を誇ったという雄勝硯。東日本大震災で一時、生産中止を余儀なくされましたが、現在は生産を再開しています。「伝統的工芸品」の指定を受けた、品質の高い硯です。
雨畑の地名がつく「山梨県南巨摩郡早川町雨畑」には、この地で最後の一件となった硯工房「硯匠庵」があります。その公式Webページには、雨畑の始まりとして次のような記載があります。
コメント
0 件のコメント :
コメントを投稿