硯にこびりついた墨
隅に墨が固まってこびりついてしまった状態
 世の中には「センケン会」なるものがあるそうで、何百万円もするような硯をタライの水の中に入れて、その水の中で硯の紋が美しく浮かび上がってくるのを眺めるのだそうです。

 庶民には到底想像もつかないような、大人の遊びなのですが、本来「センケン」=「洗硯」とは、文字通り硯を洗うという意味です。鑑賞用の高価な硯ではなくて実用の硯も、使用した後はきれいに洗うことがとても大切です。

1.墨が固まってしまう恐ろしさ

 写真は私が、ごくごく普段使いしている安物の硯です。普段のお習字には墨汁を使っているので、いわばこの硯は墨汁専用の硯です。普段、練習をしたり手本誌のお手本を書いたりするのに使っているので、一番私と過ごす時間の長い硯とも言えます。

 ところが、誠に恥ずかしい話ですが、ついつい墨汁なので、つまり、1日くらい海に墨汁を溜めっぱなしにしても次の日使えたりするものですから、洗硯が疎かになってしまっているのです。墨汁は容器に戻しても、洗わずに放っておくなんてことすらよくあります。

 その結果がこの写真です。海の隅のほうに固まっているのは墨汁です。こうなるとどんなにこすってもなかなか取れません。墨の成分は「煤」「膠」「香料」です。このうち「膠」は天然の接着剤で、煤を紙に定着させる働きをします。墨汁はこれに保存料などの化学物質が入っていいますが、墨度凝固させる成分が含まれているのは固形墨と変わりありません。固形墨でも墨汁でも、乾燥するとカッチカチに固まってしまうわけです。そして、同様によく洗わなかった硯にも墨がカッチカチに固まり、こびりついてしまうのです。

2.硯に偽物はない

 値段も安くて普段使いにしている硯は、ついつい粗末に扱ってしまいがちですが、高級な硯でも、安物の硯でも、硯であることには変わりはなく、墨はちゃんと擦れます。硯の山地から取れた硯石で作られていれば、どれも硯であって偽物というものはないのです。

 もちろんその中でも、いわゆる「墨がよくおりる」とか「発墨がよい」という硯は、価格が高くなります。硯の命とも言える鋒鋩が均一に緻密に揃っていて、しかも適度な緻密さと硬度を持っている原石を、硯職人が見極めて作っているからです。

 見栄えだけよく装飾を施したお土産品などもありますが、墨堂や海にかけて、いかにも機械で真っ直ぐに削ったようになっています。きちんと硯職人が手をかけたものは、墨堂や海にかけてのなだらかな曲線が美しく、擦り心地よく作られています。特に中国製の硯では、良い原石のいい硯は、立派な手彫りの彫刻が施されていることが多いようです。なので、良い硯かどうかの一定の目安にもなります。安物にはあまり手を施さないわけですね。同じく装飾があっても、ドリルの跡がわかるような機械仕上げのものは、よく見れば判別がつきます。そのような仕上げのものは、いわゆる安物と言えるでしょう。それでも、お土産品の機械加工品であっても、ちゃんと鋒鋩の目を立ててあげれば墨は擦れます。

3.良い硯の条件とは

 良い作品を書こうと思ったら、墨本来の美しい発色が得られる墨汁を得ることが必要です。そのためには、安物でない、ある程度以上の固形墨を擦って、擦った墨の粒子が均一に細かくなっていなくてはいけません。

 以前、NHKの「美の壷」という番組で、同じ固形墨を良い硯で擦ったものと、そうでないものを漆塗りの板に塗りつけて乾燥させて比べていました。良い硯で擦ったものは、美しく黒光りする発色で、そうでないものは光沢がなくどんよりとした黒色になりました。墨の煤の粒子が均一に細かくなると、塗って乾燥した後、光沢を放ちますが、粒子が荒かったり均一でないと乾燥した後、光が乱反射してしまい、光沢が出ないのだそうです。

 では、硯の鋒鋩が単に細かければ良いかというとそうではなく、それでは墨を擦るのにとても時間がかかってしまいますし、硯の鋒鋩の目も詰まり安くなってしまいます。適度な細かさと均一さを持った鋒鋩が必要なのです。良い硯の鋒鋩を顕微鏡で見ると、見事に均一に鋒鋩が散りばめられ、鋒鋩の向きが適度にバラバラになっています。


 さらに鋒鋩ばかりでなく、その土台となっている硯石自体の硬度も重要です。柔らかすぎると、墨の硬度に負けてしまい、硯石の細かな粒子が墨汁に混じってしまうこともあるそうです。一般的に日本で取れる硯の原石は中国のものより柔らかいため、硬度のある中国の墨をすると、硯自体が削れてしまうことがあります。

 逆に中国の硯は、硯石に硬度があるため中国の墨でも日本の墨でもよく擦れます。特に、端渓硯や歙州硯は、鋒鋩のキメも細かく、かな用の墨をするのに適していると言われています。

 良い墨色を得るためには、硯、墨はもちろんのこと、水や天気・湿度も影響するでしょう。ですので私の個人的な好みを言えば、和墨には和硯が合っているのだと思っています。そして、唐墨には唐硯が良いでしょう。もちろん、中国の硬水を持ってきてすることはできませんが。

4.硯は洗硯が大事

 どんなに良い原石の良硯でも、固形墨をすればその煤や膠が表面に付着します。で、ちゃんと洗わなければ、膠がカチカチに固まって取れなくなってしまいます。また、いつもよく洗っていたとしても、どうしても落としきれない残留した墨が鋒鋩の目を少しずつ詰まらせてしまうものです。

 鋒鋩の目が詰まってしまったら、硯用の砥石で研げば良いのですが、やはり普段からきっちりと墨汁を洗い落としてあげることが肝心です。「三日顔を洗わずとも、硯は毎日洗わなければならない。」という言葉もあるそうです。

 膠は乾燥しても2〜3日くらいなら溶けやすいですが、1週間もたってしまうとなかなか取れにくくなります。

5.硯の洗い方

 「硯の洗い方」で検索すると、実に色々と参考になる情報が得られます。どれも、有効で良い情報ですので参考にされるといいでしょう。以下に書くことも、それらの情報とほぼ同じですが、私の経験も交えてお話ししたいと思います。

・まずは水(お湯)によくつける

 最初に流水か、洗い桶にたっぷり水を入れてそこに硯を沈め、硯表面の墨を洗い流します。この時、熱めのぬるま湯か、場合によってはもっと高い温度のお湯でも構いません。また、しばらくの間お湯につけておくのも効果的です。膠が溶けて、洗いやすくなります。

・タワシは使ってOK

 サイトによっては、タワシは硯に傷をつける可能性があるから使わない方が良い、と書かれていますが、タワシで硯石に傷がついたのを見たことがありません。だって、硯は石ですから。気をつけなければいけないとすれば、亀の子タワシなど、金属で束ねてあるタワシの金属部分を硯にぶつけてしまうことでしょう。それはさすがに傷つきます。そのあたりに気をつければ、タワシで結構ゴシゴシやっても大丈夫です。

・綺麗に洗えるのは脱脂綿

 タワシは大雑把にゴシゴシ洗うのには便利なのですが、何しろ毛の太さが太いので、鋒鋩のミクロ単位の隙間にこびりついた墨を洗い落とすのには不向きかもしれません。タワシでざっくり洗った後、脱脂綿でゴシゴシと拭うとすぐに脱脂綿が黒くなるくらい、まだまだ汚れが取れます。高級な硯を洗うとき、タワシを使うのが気になる時は、最初から脱脂綿で構いません。ただ、脱脂綿がすぐに真っ黒になりますので、脱脂綿自体を水で濯ぎながらの作業になります。脱脂綿はそれほど高いものではありませんので、ある程度使ったら勿体無がらずに新しい脱脂綿に取替えながら洗ってゆくといいでしょう。

脱脂綿
脱脂綿

・和紙でも結構いける

 書き捨て半紙を水に濡らして硯を拭っても、かなり綺麗になります。水に強いし、紙の裏のざらざらした方だと、紙の繊維がいい感じにほつれて鋒鋩の隙間に入ってくれる感じがします。


 良い字を書きたかったら、道具を大切にするのは当たり前のことですが、忙しすぎる現代、それすら疎かになりがちです。そもそも書道自体、時間のかかる作業ですが、その書に志したものなら、顔は洗わなくても硯は洗うようにしたいものです。


硯研ぎに革命だ!

硯が墨をすれるのは、鋒鋩(ほうぼう)と呼ばれるやすりの目のような細かい粒子があるからです。硯を使っているうちに鋒鋩の目立てが必要になってきます。専用の砥石もありますが、もっと便利な方法がありました。