清代4大製墨名家の一つ「胡開文」
その徽州績渓の人、胡天柱(1742—1808)が清の乾隆30年(1765年)に創業した墨店が「胡開文(こかいぶん)」です。
清代の4大製墨名家として曹素功、汪近聖、汪節庵、胡開文の名が挙げられますが、その中の一つに数えられています。1.胡開文の始まり
胡天柱は少年時代に休寧県の汪啓茂墨店で製墨を学び、乾隆30年(1765年)に屯溪の汪采章墨店を引き継いで墨店を創業しました。ついで、乾隆47年(1782年)には汪啓茂墨店も引き継いだそうです。店名の「開文」は徽州府孔廟の「天開文苑」の額からとったということです。
その後、各地に分店を数多くつくり、同じく徽州で創業して各地に支店を作った曹素功とともに墨のシェアを二分するほどのメーカーとなりました。
2.万博での金賞受賞
清末期になると、ドイツや日本から工業用の黒鉛が中国に入り、安価に黒色を実現できることから分店の一つ「廣戸氏胡開文」がこれを墨に使用して大成功を収めたそうです。
さらに中華民国の時代となった1915年、パナマ運河竣工を祝って開催された「パナマ万国博覧会」に胡開文の「地球墨」という墨が出品され金賞を受賞しました。このことにより胡開文の名は、世界的に広がりました。
3.歙県徽墨廠と文革後の胡開文
1960年に入り、文化大革命が起こると、企業の合併統合が行われ、徽州の墨店は胡開文を中心に「歙県徽墨廠」として統合されました。 なので、ざっくり言うと胡開文を中心に統合されたのが「歙県徽墨廠」、曹素功を中心に統合されたのが「上海墨廠」と言っても差し支えないかと思います。
文革が終わり1980年代になると、歙県徽墨廠で働いていた職人たちは、もとの「胡開文」ブランドで墨の製造を行う個人経営の工房に分かれていきました。現在、20余りの個人工房があるそうですが、その中でも著名なものは次の通りです。
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