九成宮醴泉銘
 中国の名前というと、名字が一文字で名前が二文字というのが普通だと思っていました。例えば王羲之は王が姓で羲之が名前です。同様に虞世南も虞が姓で世南が名前。なので、恥ずかしながら最初に欧陽詢の名前を知った時、欧が姓なのかと思ってしまいましたが、欧陽が姓なのですね。そういえば、「ラヴ・イズ・オーヴァー」のヒットで有名な欧陽菲菲という台湾出身の方がいましたが、欧陽詢と同じ姓ですね。

1.欧陽詢の生い立ち

 欧陽詢(おうよう じゅん)・557年〜641年。字は信本(しんぽん)、85歳まで生きています。

 同じく初唐の三大家のひとり虞世南よりひとつ年上で、亡くなるのは虞世南の3年後ということになります。
 欧陽詢は虞世南と同じく南朝・陳の人で潭州臨湘(今の湖南省長沙市)に生まれました。祖父の欧陽頠(おうよう ぎ)は陳の大司空を勤めた官僚で、父の欧陽紇(おうよう こつ)は陳の広州刺史を勤めていましたが、謀反に加担したため殺されてしまいます。反逆の罪ですので、当然一族である欧陽詢も処刑される身でしたが、父の友人である江総(こう そう)が欧陽詢を引き取って養育しました。欧陽詢が12歳の時のことだそうです。
 欧陽詢が24歳の時、時代が大きく動き、南北朝に分かれていた中国を隋が統一することになります。王朝が変わればもはや反逆者の子ではありません。隋朝に登用されると、太常博士という官職につきます。

2.王羲之を学び北朝の書風も学んだ欧陽詢

 南朝で育った欧陽詢は、当然のように王羲之の書を学びました。養父・江総は、かわいそうな境遇の欧陽詢を大切に育てただろうことは想像に易いですが、さらに欧陽詢自身も非常に勤勉だったようです。隋朝で太常博士に引き立てられたのも、経書や史書に精通していたからでしょう。
 また、欧陽詢は南朝の書だけでなく、北朝の厳しい書風にも惹かれたようです。西晋・索靖(さく せい)の石碑に心を寄せ、「かつて索靖が書いた碑を見に行った。見終わって行きかけたがまた戻って立ち尽くし見入った。疲れてきたので敷物を敷いて眺め、とうとうそこで野宿してしまった。三日後にようやく立ち去ることができた」と新唐書に書かれているそうです。また述書賦には、北斉の劉珉(りゅう びん)からも書の教えを受けたと伝えられています。さらに旧唐書には「欧陽詢は初め王羲之の書を学んだが、やがて強さ鋭さでこれを凌駕するようになった。」と記されているそうです。確かに欧陽詢の書には、南朝の優雅な美しさの中に、キリリと引き締まった力強さを感じます。

九成宮醴泉銘

3.楷書の極則「九成宮醴泉銘」

 やがて時代は唐を迎えます。唐朝を建てた李淵(高祖)とは隋朝に仕えている時から親交が深く、親密な関係であったそうです。李淵に引き立てられた欧陽詢は給事中という要職に大抜擢されます。欧陽詢の学識からすれば当然のことですが、すでに欧陽詢は62歳という高齢に達していました。
 さらに唐の二代皇帝・太宗が即位すると弘文館が作られ、虞世南とともに弘文館学士に任ぜられます。また、太子率更令という皇太子の守役にもなるとともに渤海県男という官職にも封ぜられました。
 欧陽詢の最も著名な作品は「九成宮醴泉銘」です。太宗が、隋の仁寿宮を修理して造営した九成宮に避暑した時、その中に醴泉(れいせん、あま味のある泉)が湧き出したため、これは唐の一大祥瑞であると、このことを碑に刻するようにと勅命により、魏徴が撰文し、欧陽詢が書いたものです。
 全体に字形は縦長で、縦画が主格の場合は上か下に揺るぎなく突き出し、横画も直線で間隔は非常に正確で、全く隙がありません。対向する線はわずかに背勢。起筆は極端に打ち込みませんが、収筆は止めるにせよハネるにせよきっちりと収められて曖昧さがありません。これを76歳の時に書いたのですから、恐ろしい筆力です。


 欧陽詢は、実は楷書のみならず八体(古文、大篆、小篆、隷書、章草、飛白、楷書、行書)全てが巧みであったと書断に記されています。書だけでなく、撰著として「藝文類聚」を始め「麟角」「用筆論」「八訣」などがあるほどの学識でした。しかし、高麗からの使者が唐を訪れた時、唐の高宗は「その書を見たら、立派な風貌だっただろう」と嘆いたそうです。また、文徳皇后の葬儀に喪服をつけて列席した欧陽詢を見て人々があまりにもカッコ悪いので密かに笑ったが、許敬宗という人が大いに笑ったために左遷されたという話や、唐代の「補江総白猿伝」という小説に母親が白猿にさらわれた時に身ごもったのが欧陽詢だというような話まで残っています。旧唐書にも、「容貌は大変醜い小男だったが聡明さは際立っていた」と書かれているとのこと。欧陽詢の肖像画が残されていないのは、このような事情もあるのかもしれません。