初唐の三大家、虞世南、欧陽詢褚遂良。楷書体を美しく完成させたと言われるこの三人は、唐の大宗に重用され、楷書を普及させる務めを果たしました。
 唐は、隷書から発展し後漢時代に現れた楷書体正書として採用し、この普及に努めます。科挙の試験でも楷書体が美しく書けることが合格の必須条件でした。この楷書体を広めるために唐の太宗は、「弘文館」を建てて、虞世南、欧陽詢褚遂良に書法の指導をさせたのです。

1.虞世南の生い立ち


 虞世南(ぐ せいなん)・558年〜638年。字は伯施(はくし)、81歳で亡くなっています。

 隋朝が起こる前、中国は魏晋南北朝時代と呼ばれる時代で、大きく北朝と南朝に分かれていました。北朝は匈奴と呼ばれる北方異民族が支配し、漢民族の王朝は南方に逃れて、東晋を建国しました。その東晋に活躍したのが書聖・王羲之です。
 虞世南は南朝の陳の人で、越州余姚(今の浙江省寧波市余姚市)に生まれました。陳はやがて隋に滅ぼされ、虞世南は兄の虞世基とともに隋に使えます。隋の二代皇帝・煬帝は虞世基を重用しましたが、暴君だったため反乱軍に殺害され、その類が虞世基にも及びます。虞世南は兄を助けようとしますが、叶わずに兄は殺されてしまいます。
 悲しみの中にいた虞世南ですが、時代は唐へと目まぐるしく変わり、そこで唐の二代皇帝・太宗と出会います。太宗は虞世南の才能と人柄に惚れ込んで、重用することとなるのです。

2.書を智永に学ぶ

 虞世南の書の先生は、なんとあの智永だそうです。
 智永は、王羲之の七世の子孫にあたる人で、王羲之の五男・王徽之の六世のちの子孫です。智永は、永欣寺という寺に出家し、隋の時代になると長安の西明寺に移りました。代々伝わる王羲之の書を熱心に学び、永欣寺の閣上に30年閉じこもって「真草千字文」を800本以上も書いたと伝えられています。それらは、江東地域の寺々に贈られ、王羲之書法を広める働きをしました。
 虞世南は、その智永に書を学び、王羲之・王献之の書法を基礎に南朝の優雅な書風を身につけます。書以外でも顧野王や徐陵といった優れた学者に学びました。唐・太宗は虞世南の徳行・忠直・博学・文辞・書簡を「五絶」とたたえました。

3.唐の正書「楷書」を普及させる

 唐・太宗に仕えた虞世南は、太宗の政治の中心人物の一人である房玄齢とともに公文書を全て司る役職に就きます。公文書は当然、正書で書かれるものです。また、欧陽詢とともに書籍の校正を司り、弘文館で書法を教授しました。
 太宗が即位した年にはすでに69歳という年齢で、何度も辞職を願い出ますが、太宗の信任は厚く、晩年は宮中の図書を管理する秘書監に任ぜられ、王羲之をはじめ様々な名跡の鑑定も託されます。
 太宗は儒教を擁護して国の教えとし、孔子廟の修復を命じますが、その落成に際し建てられたのが「孔子廟堂碑」です。勅命により70代前半であった虞世南が書きました。柔らかさのなかにも強さがあり、気品にあふれたその書は、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」とともに、楷書の完成形を示す名品です。孔子廟堂碑の実物はすでに失われ、拓本も三井記念美術館が所有する一本が現存するのみです。

 ちなみに虞世南は、衣服の重みに耐えられないほど痩せていたと言われます。また、虞世南が亡くなった時、太宗はとても悲しみ、昭陵に陪葬を許したということです。