褚遂良
 初唐の三大家欧陽詢虞世南、褚遂良。三大家とひとくくりにされますし、唐の太宗に重用され、楷書を美しく完成させた3人と言われますので、ついつい3人とも同世代の同僚かと思ってしまいます。けれども褚遂良は他の二人、虞世南、欧陽詢よりも40歳近く年下の後輩です。

1.褚遂良の生い立ち

 褚遂良(ちょ すいりょう)・596年〜658年。字は登善(とうぜん)、63歳で亡くなっています。
 褚遂良は杭州銭塘県(現在の浙江省)の出身で、父は褚亮(ちょ りょう)という人です。南朝の人で、曽祖父、祖父とも陳で著名な人物だったそうです。父の褚亮の陳、隋と仕え、隋末に挙兵した薛挙が建国すると黄門侍郎を授けられ、褚遂良も薛挙の下で通事舎人をつとめます。唐の太宗は早くから褚亮の名声を聞いていたため、薛挙が破れると唐に迎え入れられました。褚遂良も共に唐に入り、秦州都督府鎧曹参軍を授けられます。618年のことで、計算すると22歳になります。欧陽詢、虞世南とも60歳をすぎて唐の時代を迎えているのと比べ、若くして太宗の書や文化を尊重する治世の中で活躍できました。

2.書を虞世南、欧陽詢に学ぶ

 張懐瓘の「書断」という書物に、褚遂良は「少年時代は虞世南に私淑し、後には王羲之を祖述した。」と書かれているそうです。また、父の褚亮は欧陽詢の友人だったそうですので、欧陽詢の影響もあったに違いありません。
 太宗は唐の第2代皇帝で、いわゆる貞観の治を行った名天子です。自身、虞世南に書を学び歴代帝王中第一の能書と言われます。王羲之の書を非常に愛しました。太宗は、高祖が置いた「修文館」を即位後「弘文館」に改め、優秀な人材を選んで弘文館学士の称号を与えます。この職責は大変名誉なことだったそうで、政府の官僚でありながら、学士を兼ねました。弘文館は特に書を好んで学び素質のあるものが学ぶ場所で、欧陽詢、虞世南は学士として書法を教授しました。そして、褚亮も同じく弘文館学士でした。
孟法師碑
 虞世南が638年に没すると、太宗は書について語る相手がいなくなったと大変嘆いたそうです。王羲之の書の鑑定役を務めていた侍中の魏徴は、褚遂良を推薦します。そこで即日召されて侍書に抜擢され、弘文館の館長に任命されたのです。ということは、欧陽詢や虞世南よりも上の立場??それほど、太宗の信頼を得たということでしょう。

3.王羲之の書を鑑定し、ひとつも誤りがなかった

 太宗は貞観年間(627年 - 649年)を通じて王羲之の真跡を集めました。国中にある王羲之の書を国費を投じて買い付けるのですから、当然偽物もたくさん現れます。褚遂良はそれらの王羲之の書を鑑定し、詳細のその出所などを論じて誤りがなかったということです。
 王羲之の書の鑑定を通して、直に王羲之の真跡を多く見ることができ、また太宗の命でその臨模を製作するなど、王羲之の書をじっくりと学ぶことができたことでしょう。
雁塔聖教序
 40代頃までの書は、欧陽詢、虞世南の書風を引き継いだ書風ですが、晩年に太宗、高宗の文章を書いた「雁塔聖教序」は銀線のように引き締まった線質の中に豊かな包容力や豊かさがあり、太細の変化を持っています。欧陽詢、虞世南の楷書が正書として普遍的に完成しているのに対し、そこから脱して新しい個性ある楷書体へと独自の境地に達したかのようです。

 褚遂良は、太宗の厚い信頼を受け、諫言することも多かったそうです。皇太子の擁立にあたり、高宗を推薦するとその養育係となります。太宗が亡くなると高宗の重臣となりますが、のちの則天武后となる武昭儀を皇后にすることに反対したため則天武后に深く憎まれることになります。655年に潭州都督に左遷され、657年には桂州都督に転じ、さらに愛州(現在のベトナム北部)刺史に左遷され、翌658年、63歳で没しました。