普段書きの発展(草書、行書)
王献之「地黄湯帖」 行書・草書まじりで書かれている |
しかしよく考えると、楷書と呼ぶにはあまりにも不格好ですし、終筆はわずかに跳ね出し、折れは曲線的になっていたり、確かに行書の特徴でした。
役所に提出するような書類を書く時は、一点一画を正確に、印刷の字のように書こうと心がけますが、普段書きの字はある程度崩した書き方になります。
漢代に隷書が正書体となると、篆書・隷書を崩した通行体「章草」が現れます。章草は後漢の頃に「草書」として完成します。草書の「草」は「草稿」「下書き」を意味します。
秦で篆書が正書体とされた時、すぐに篆書を崩した普段書き(=通行体)が現れました。それが徐々に整えられて隷書になりました。
1.隷書は篆書の普段書きだった
隷書から行書に 移行し始めた書体 |
同じく後漢の頃、草書とは別に隷書を速書きする「行狎書(行押書)」が現れ、「行書」に発展しました。草書は、篆書・隷書の点画を省略したもの、行書は隷書を早書きしたものと言えるでしょう。
2.紙の登場で字形も変化した
後漢の蔡倫という人が、105年に紙を発明したと言われます。研究が進み、蔡倫より前から紙があったことがわかっていますが、蔡倫によって紙の改良がされたようです。
同様に、蒙恬という人が獣の毛を集めて筆を作り、始皇帝に献上したと言われます。こちらも研究により、甲骨に毛筆で下書きがあったことがわかっていますので、蒙恬は筆を改良したと考えられています。
秦〜後漢にかけての毛筆や紙の改良は、新書体である隷書、草書、行書の誕生にも影響しました。草書も行書も、入筆は露鋒で結構は縦長、終筆は払ったり跳ね出したりと奔放です。筆線には俯仰が現れ、筆脈が発生しました。
説文解字は、小篆の字体と字義、成り立ちを「象形、会意、形声、指事、転注、仮借」という6つの分類「六書」で説明します。隷書以降、篆書の字形から大きく離れてしまいました。例えば「自」という字は、象形文字で「鼻」の形です。顔の真ん中にある鼻を指差して自分のことを表したので「自己」という意味となり、息をする器官であることから「自然」という意味へも拡張されました。
すると、もともとの鼻を意味する字を新たに作る必要ができ、「自」に「異」という文字を組み合わせて「鼻」が作られました。
これらの経緯は、篆書だとわかりやすいのですが、説文解字によって、篆書と漢字の成り立ちが保存されたおかげで、漢字が内包する字義を知ることができるのです。
上條雅峰の書と書にまつわることなどを綴ったブログです。日本自由書道本部連盟理事、外苑前教室を主宰。
墨書はもともと下書きで使われていたのですが、秦代になると下級役人たちが日常的に文章を筆記するようになりました。篆書のくずし書きだった隷書は漢代になると正書となりました。
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